消費される反逆−SEALDsの欺瞞と無力
ニヒリズムの奈落から這い上がろうとする者は、さらに深い奈落へと堕ちていく。SEALDsの現象こそ、この命題の完璧な例証である。彼らは「民主主義」と「立憲主義」という空虚な記号を掲げながら、実際には資本の流通回路を強化する働きしか持ち得なかった。彼らが演じた「抵抗」の劇は、システム内に予め組み込まれた安全弁としての機能を完璧に果たし、結果的に体制の安定化装置として作動した。これが「SEALDs」という現象の冷厳な真実である。
「自由と民主主義のための学生緊急行動」という名称自体が、すでに欺瞞に満ちている。彼らの行動には何の「緊急性」もなかった。彼らの運動は、ある種の政治的パフォーマンスであり、若者による消費のための記号的「抵抗」のスペクタクルに過ぎなかった。彼らが国会前で展開した「クール」なデモは、政治的効果を生むためではなく、むしろ自分たちが「抵抗している」というイメージを消費するためのセレモニーだった。彼らの「戦争反対」「アベ政治を許さない」といったスローガンは、内容のない空虚な記号として流通し、若者たちの差異化のためのファッション・アイテムとして機能した。
SEALDsの根本的欠陥は、彼らの「抵抗」がシステムにとって何の脅威にもならなかったことである。彼らは既存の政治的枠組みの中で、その枠組みが許容する「反逆」のみを演じた。これはヒースとポターが『反逆の神話』で鋭く指摘した通り、現代の反カルチャーが資本主義システムに対する真の脅威としては機能せず、むしろ市場に新たな差異化の原理を提供するに過ぎないという事実の完璧な例証である。
彼らの「抵抗」は書籍化され、メディアに消費され、政治的ブランドとして市場に流通した。彼らが象徴的に抵抗していたはずの権力構造は、この「抵抗」自体を吸収し、商品化することで自らを強化した。SEALDsの「クールな抵抗」のイメージは、「日本の若者も政治に関心があるんだ」という自己満足的なリベラル言説の生産に貢献し、結果的に既存の政治的枠組みを強化する機能を果たした。
さらに深刻なのは、SEALDsによって表明された政治的想像力の決定的な欠如である。彼らは安全保障関連法案に反対したが、その背後にある帝国主義的な国際秩序や国家のあり方自体を問うことはなかった。彼らは「アベ政治」に反対したが、新自由主義的な経済システムそのものを問うことはなかった。彼らの「抵抗」は常に表層的で、部分的なものに留まった。
彼らが掲げた「立憲主義」や「民主主義」という概念は、ある種の消費可能なイメージとしての「リベラル価値」に過ぎず、その根本的な再定義や再構築を伴うものではなかった。それは「民主主義」という記号の空虚な消費であり、真の政治的実践ではなかった。彼らはシステムが用意した「反抗」の脚本を忠実に演じることで、結果的にシステムの安定性に貢献した。
ニック・ランドが洞察したように、現代の資本主義システムは、その批判すらも先取りして自らのうちに包摂していく恐るべき能力を持っている。SEALDsの運動は、まさにこの資本の包摂プロセスの完璧な例である。彼らは「抵抗」を表明したが、それは同時に、特定の政治的スタンスを示す消費行動として機能した。彼らの「抵抗」は、資本の流通回路の中に完全に組み込まれ、新たな商品として市場に提供されただけである。
SEALDsの解散後、その主要メンバーたちの変貌は象徴的である。彼らの多くはメディアでの執筆活動やシンクタンクの立ち上げなど、「反逆」のブランド価値を個人の文化資本へと変換する道を歩んでいる。かつての「反逆者」たちは、今やシステム内での新たな位置取りのために、自らの「反逆者」としての経験を利用している。これは「反逆」が単なるキャリア・パスの一部として機能する典型的な例である。
もっとも批判すべきは、SEALDsが創出した政治的幻想である。彼らは若者たちに「クールな抵抗」のイリュージョンを提供し、実質的には何も変わらないままでの政治的カタルシスを与えた。彼らの活動は、日本の若者たちが「抵抗している」という自己イメージを消費するための儀式として機能し、結果的には真の政治的変革への障害となった。
彼らが「音楽やファッションを取り入れた斬新なコミュニケーション戦略」として賞賛した手法は、実際には政治をエンターテイメント化し、消費の対象として矮小化するものだった。「抵抗」がファッションとなり、政治的主張がブランド・アイデンティティとなる時、真の政治的変革の可能性は消失する。
SEALDsの最大の欺瞞は、彼らが「民主主義の危機」を訴えながら、実際には民主主義の空洞化を加速させた点にある。彼らは「民主主義」という記号を空虚に消費することで、真の民主主義的実践の可能性を遠ざけた。彼らの活動は、政治参加がスペクタクルとして消費される時代において、その消費のためのテンプレートを提供した。
日本の社会運動の文脈において、SEALDsの出現と消滅は、資本主義システムが反逆の欲望すらも商品として流通させることの完璧な例証となった。ソーシャルメディアでの「いいね」の数が政治的効果の指標となり、スタイリッシュなプラカードやデモのパフォーマンス性が評価される時、政治はすでに消費の領域に完全に回収されている。
SEALDsによる「反安保法制」の運動は、資本の流通を遮断するどころか、むしろ新たな流通の回路を創出した。彼らは「抵抗」のイメージを商品として流通させることで、資本主義システムに新たな消費の可能性を提供した。彼らの運動は、システムに対する脅威としてではなく、むしろシステムを活性化させる刺激として機能した。
彼らのスローガンである「民主主義ってなんだ?」という問いかけは、皮肉にも彼ら自身が最も答えられない問いであった。彼らの「民主主義」は表層的な記号に過ぎず、その実践は消費のための儀式に還元された。真の民主主義的実践は、資本の流通回路を遮断し、その根本的な作動原理を問い直すものでなければならない。SEALDsの運動はそれとは正反対のものだった。
つまるところ、SEALDsの現象が教えてくれるのは、現代の資本主義システムにおいて「抵抗」がいかに容易く商品となり、システムの強化に貢献するかという冷厳な事実である。真の政治的変革を求めるならば、我々はまず「認可された反逆」の罠を認識し、資本の流通回路に回収されない政治的実践の可能性を模索しなければならない。
SEALDsの限界は、日本の政治的想像力の限界を象徴している。彼らの運動は、「抵抗」のイリュージョンを提供することで、真の抵抗の可能性を遠ざけた。彼らが示した「クールな抵抗」のモデルは、政治的実践としては完全に破産しており、今後の社会運動にとっての反面教師となるべきものである。
彼らが「緊急行動」として提示した活動は、実際には資本の流通のための新たな回路を開くに過ぎなかった。真の「緊急性」は、資本の流通そのものを遮断するような実践にこそあるはずだ。しかし、SEALDsはそのような実践とは最も遠い位置にあった。彼らの運動は、資本主義システムへの馴化と共犯関係の典型として歴史に刻まれるべきである。