思想家・遠藤道男 思考録

領土なき夢遊 — ウェルベックとセリーヌにおける現実の溶解

現実は既に表象に先行されている。ウェルベックの『地図と領土』が提示するのは、芸術家ジェド・マルタンが描く風景画が現実の風景よりもリアルに感じられるという転倒した状況である。しかしこの転倒こそが、我々の時代の真の条件なのではないか。地図が領土に先行し、シミュラークルが現実を構成する時代において、芸術は単なる表象の問題ではなく、存在論的な問題となる。

セリーヌの『夜の果てへの旅』におけるバルダミュの放浪は、まさにこの表象と現実の境界が曖昧になった世界での夢遊病的な移動である。戦場から植民地へ、そしてパリの郊外へと続く彼の旅路は、一つの連続した悪夢として展開される。重要なのは、バルダミュが体験する現実の質感が一貫して非現実的であることだ。戦争の狂気、植民地の暴力、都市の孤独 — これらすべてが同じ強度の幻覚的リアリティを持っている。

ウェルベックが描くジェド・マルタンの芸術的軌跡もまた、現実から離脱していく過程として読むことができる。最初は工業製品の写真撮影から始まり、次第に絵画へと移行していく彼の変遷は、表象技術の進歩と反比例するように、より原始的で直接的な表現手段へと回帰していく。しかしこの回帰は単純な退行ではない。それは高度に技術化された現実に対する、別種のテクノロジーとしての芸術の応答なのである。

セリーヌの文体における句読点の破綻、省略記号の乱用、口語的な語彙の氾濫は、まさにこの現実の解体を言語レベルで実現している。伝統的な文学的表現が前提とする秩序ある世界観は、彼の文章においては徹底的に破壊される。バルダミュの意識の流れは、論理的な因果関係を拒否し、感情的な強度によってのみ接続される断片的なエピソードの連鎖として現れる。これは単なる文体的実験ではなく、崩壊した現実に対応する新しい認識の形式なのである。

ウェルベックにおいて、現実の質感は一種の平板さによって特徴づけられる。登場人物たちの感情は抑制され、出来事は淡々と記述される。しかしこの感情的な平坦さの背後には、激烈な虚無が潜んでいる。ジェド・マルタンの父親であるウェルベック(作家自身と同名の登場人物)の残酷な死は、この虚無の突然の顕現として機能する。彼の死体が発見される場面の詳細な描写は、現実の暴力性が表象の网の間から漏れ出る瞬間を捉えている。

両作品に共通するのは、主人公たちが自らの存在の根拠を失っているということである。バルダミュは戦争によって、ジェド・マルタンは現代社会の抽象化された人間関係によって、それぞれ存在論的な基盤を失っている。しかし彼らはこの基盤の喪失を嘆くのではなく、むしろそれを新しい生存の条件として受け入れようとする。バルダミュの皮肉な諦観と、ジェド・マルタンの芸術的な集中は、ともに虚無に対する積極的な応答として理解することができる。

重要なのは、両者とも移動する存在であるということだ。バルダミュの物理的な移動と、ジェド・マルタンの芸術的な転換は、ともに固定された identityからの逃走として機能している。彼らは何者でもないことによって、逆説的に何にでもなり得る可能性を獲得する。この可能性は決して実現されることがないが、その潜在性こそが彼らの存在を支えている。

ウェルベックの小説において、テクノロジーは人間性を脅かす外的な力ではなく、人間の本質的な条件として現れる。ジェド・マルタンが最終的に選択するのは、高度な技術を使った写真ではなく、手で描かれた絵画である。しかしこの選択は技術への単純な拒否ではない。絵画もまた一つのテクノロジーであり、より原始的であるがゆえに、より直接的に現実に介入する力を持っている。

セリーヌの場合、言語そのものがテクノロジーとして機能している。彼の革新的な文体は、従来の文学的表現の限界を破り、新しい現実認識の可能性を開いている。バルダミュの語りは、出来事の客観的な記録ではなく、主観的な体験の直接的な転写として機能する。この転写の過程で、現実と妄想、記憶と想像の境界は曖昧になり、すべてが同一の強度を持った体験として現れる。

両作品が最終的に提示するのは、現実そのものの不安定性である。我々が現実と呼んでいるものは、実は様々な表象技術によって構成された脆弱な構築物に過ぎない。この構築物が崩壊する時、我々は新しい存在の可能性に直面することになる。それは恐怖すべき可能性であると同時に、解放的な可能性でもある。バルダミュとジェド・マルタンは、この両義的な可能性の探求者として、我々の前に立ち現れているのである。

作成日: 2025年5月23日