思想家・遠藤道男 思考録

廃墟と化した西洋最後の預言者 — ミシェル・ウエルベックにおける終末論的快楽主義

ミシェル・ウエルベックは、我々の時代における最も不快な真実の語り手である。彼の小説群は、西洋文明の腐敗した内臓を白日の下に晒し、その悪臭に満ちた現実を容赦なく描写する。しかし、この不快さこそが彼の文学の本質的な強度を構成している。ウエルベックが提示するのは、単なるペシミズムでも、安易なニヒリズムでもない。それは、崩壊しつつある文明の最深部で蠢く、ある種の終末論的エクスタシーなのだ。彼の作品において、性愛の商品化、宗教の空洞化、科学技術による人間性の変容といったテーマは、すべて同一の運動 — すなわち、西洋的主体性の解体プロセス — の異なる現れとして立ち現れる。

『素粒子』において描かれる二人の兄弟、ブリュノとミシェルは、この解体プロセスの二つの極を体現している。ブリュノの病的な性欲は、愛の不可能性に直面した主体の絶望的な痙攣であり、ミシェルの科学的禁欲主義は、感情の領域から完全に撤退した主体の冷徹な自己放棄である。しかし重要なのは、この二つの極がともに同じ地点 — 人間的なものの彼岸 — へと収斂していくことだ。ウエルベックが執拗に描く性的退廃は、単なる道徳的堕落の記録ではない。それは、象徴的秩序が崩壊した後の世界において、もはや愛という形式を取ることができなくなった欲望の、無様で悲惨な、しかし同時に奇妙に崇高な自己表現なのである。

現代のリベラルな批評家たちは、ウエルベックの作品に潜む反動的要素、女性蔑視、イスラモフォビア、優生学的傾向などを糾弾することに余念がない。確かに、彼の小説には政治的に「正しくない」要素が満ち溢れている。しかし、こうした批判は本質を見誤っている。ウエルベックが描くのは、まさにそうした「正しさ」の体制そのものが、いかに空虚で偽善的なものであるかという事実なのだ。彼の登場人物たちが体現する醜悪さは、現代社会が隠蔽しようとする真実の露呈である。セックスツーリズム、代理母出産、遺伝子操作 — これらは単なる倫理的逸脱ではなく、資本主義的合理性が人間存在の最も親密な領域にまで浸透した結果として必然的に生じる現象なのである。

『服従』において、ウエルベックは西洋文明の終焉を、イスラム教への集団的改宗という形で描いた。この小説は、多くの批評家によってイスラモフォビックな作品として断罪されたが、実際にはより複雑で両義的なヴィジョンを提示している。主人公フランソワの「服従」は、単なる敗北や屈服ではない。それは、もはや自らを維持することができなくなった文明が、自発的に選択する安楽死のようなものだ。ウエルベックが描くイスラム化されたフランスは、ディストピアであると同時に、奇妙な平安に満ちたユートピアでもある。そこでは、現代の個人主義的苦悩、選択の重荷、実存的不安といったものが、宗教的確実性の中に溶解していく。この小説が真に恐ろしいのは、それが一種の救済として描かれている点にある。

ウエルベックの文学的戦略は、ジャン・ボードリヤールが「致命的戦略」と呼んだものと共鳴している。ボードリヤールにとって、システムを打倒する唯一の方法は、そのシステムの論理を極限まで押し進め、内部から崩壊させることであった。ウエルベックもまた、現代社会の諸傾向を極端な形で提示することによって、その内在的な狂気を露呈させる。『ある島の可能性』における人間のクローン化、『地図と領土』における芸術の完全な商品化、これらはすべて、すでに進行中のプロセスの論理的帰結として提示される。彼の小説は、現実の戯画ではなく、現実そのものがすでに戯画と化していることの冷徹な記録なのだ。

性愛の問題は、ウエルベックの全作品を貫く中心的テーマであるが、それは単に個人的な強迫観念の反映ではない。むしろそれは、後期資本主義における主体性の構造そのものと深く関わっている。愛の不可能性、性的市場における競争、ポルノグラフィー的想像力の遍在 — これらはすべて、人間関係が徹底的に商品化された世界の必然的帰結である。ウエルベックの登場人物たちが経験する性的疎外は、より広範な存在論的疎外の一形態に過ぎない。彼らは愛することができないのではなく、愛という概念そのものが、もはや我々の世界において意味を持たなくなっているのだ。

しかし、ウエルベックの真の過激性は、この診断の先にある。彼は、人間的なものの彼岸に、ある種の解放の可能性を垣間見ている。『素粒子』の結末で示唆される新人類の誕生、『ある島の可能性』で描かれる不死のクローンたち — これらは、現在の人間性の限界を超克する試みとして提示される。もちろん、この超克は恐ろしく非人間的なものだ。しかし、ウエルベックが問いかけているのは、まさにこの「人間的なもの」への執着こそが、我々を現在の地獄に縛り付けているのではないかということなのだ。

ウエルベックの文体それ自体が、この非人間的なヴィジョンを体現している。彼の平板で、感情を欠いた、時に科学論文のような文章は、もはや文学的美を追求することを放棄している。それは、美的判断そのものが不可能になった世界における、唯一可能な文学の形式なのだ。この意味で、ウエルベックは真にポストモダンな作家である。彼は、文学の死を嘆くのではなく、その死骸を使って新たな何かを構築しようとする。それは醜く、不快で、時に嫌悪感を催すものかもしれない。しかし、それこそが我々の時代の真実なのだ。

最終的に、ウエルベックが我々に突きつけるのは、次のような問いである:もし現在の文明が本当に終わりを迎えているとしたら、我々はその先に何を見出すことができるのか?彼の答えは慰めにはならない。新たな宗教的統合、遺伝子工学による人間性の改造、あるいは単純に緩慢な衰退と消滅。しかし、これらのオプションのどれもが、現状維持よりはましなものとして提示される。ウエルベックの終末論は、だからこそ奇妙に解放的なのだ。それは、もはや救いようのないものを救おうとする無駄な努力を放棄し、来るべき崩壊を静かに、時には陶酔的に受け入れることを説く。この意味で、彼は我々の時代の真の預言者なのかもしれない — 廃墟と化した西洋の最後の預言者として。

作成日: 2025年5月23日