腐敗の美学 — 現代アートという名の屍体安置所
現代アートが放つ腐臭は、単なる比喩ではない。それは文字通り、死んだものが分解していく過程で発する臭気である。だが、この腐臭を嗅ぎ分けることができる者は驚くほど少ない。なぜなら、現代アートという名の巨大な死体安置所は、防腐剤と芳香剤によって巧妙に偽装されているからだ。その防腐剤の名は「市場価値」であり、芳香剤の名は「批評的言説」である。我々が目撃しているのは、創造性の死後硬直を「前衛」と呼び、腐敗のプロセスを「革新」と称する、壮大な欺瞞のシステムなのだ。
ジョルジュ・バタイユは『エロティシズム』において、腐敗を単なる破壊や消滅としてではなく、ある種の過剰なエネルギーの解放として捉えた。腐敗とは、有機体が自らの境界を失い、周囲の世界と溶け合っていく過程である。それは恐怖と魅惑が入り混じった、聖なるものと汚れたものの境界が曖昧になる瞬間でもある。バタイユにとって、この腐敗のプロセスは、人間が自己の有限性を超越し、連続性の世界へと参入する可能性を示唆していた。しかし、現代アートにおける腐敗は、バタイユが語った聖なる腐敗とは全く異なる。それは生命力の爆発的な解放ではなく、むしろ生命の完全な不在、創造的エネルギーの枯渇を意味している。
現代アートの腐臭の源泉は、その制度化された反制度性にある。アートワールドは、反逆と革新を標榜しながら、実際には最も保守的で硬直化したシステムの一つとなっている。美術館、ギャラリー、批評家、コレクター、オークションハウスといった制度的装置は、「新しさ」や「挑発」を商品として流通させる巨大な機械と化している。この機械は、真の創造性や革新性を必要としない。むしろ、それらは邪魔でさえある。必要なのは、「新しさ」の記号、「挑発」のシミュラークルだけだ。こうして、現代アートは自らの死を「生」として演じ続ける、グロテスクな人形劇となった。
腐敗のプロセスは加速している。かつて、デュシャンの『泉』は、芸術の概念そのものを問い直す革命的なジェスチャーだった。しかし今日、便器を美術館に置くことは、もはや何の衝撃も生み出さない。それどころか、このような「挑発」は、アートワールドの日常的な儀式の一部となっている。バナナをダクトテープで壁に貼り付け、それを12万ドルで売買することは、もはや芸術の境界を押し広げる行為ではない。それは、腐敗した死体に化粧を施し、生者のふりをさせる、醜悪な見世物に過ぎない。
現代アートの腐臭は、その自己言及的な性質からも発生している。アートはもはや世界について語らない。それは自分自身について、アートについて、アートワールドについて語るだけだ。この無限の自己言及は、創造的エネルギーを内部で循環させ、最終的には完全に枯渇させる。それは、自分の尾を飲み込むウロボロスのイメージだが、永遠の循環ではなく、自己消化による緩慢な死を意味している。批評家たちは、この自己言及性を「メタ批評的」「自己反省的」などと称賛するが、それは腐敗臭を香水と勘違いしているに過ぎない。
バタイユは、真の芸術は「不可能なもの」を目指すと述べた。それは、言語や表象の限界を超えて、存在の深淵に触れようとする試みである。しかし、現代アートは「不可能なもの」を追求するどころか、最も安全で予測可能な道を選んでいる。それは、市場で売れるもの、批評家に評価されるもの、美術館に収蔵されるものを生産する。この予定調和的な生産は、芸術を単なる文化産業の一部門に貶めている。アーティストは、創造者ではなく、文化的商品の生産者となった。彼らが生産するのは、驚きや感動ではなく、「アート」というラベルの付いた高級消費財である。
現代アートの腐臭は、その政治的な欺瞞からも立ち昇る。多くの現代アーティストは、自らを社会批判者、革命家として位置づける。彼らは、資本主義、家父長制、人種差別、環境破壊などを批判する作品を制作する。しかし、これらの「批判的」な作品は、まさに彼らが批判する体制によって購入され、展示され、称賛される。富裕層のコレクターは、資本主義を批判する作品を数百万ドルで購入し、自宅に飾る。美術館は、制度批判的な作品を常設展示に加える。この矛盾は、もはや皮肉ですらない。それは、腐敗が極限まで進行し、すべてが無意味になった状態の表れである。
腐敗臭を最も強く放っているのは、「参加型アート」「リレーショナル・アート」と呼ばれる領域かもしれない。これらは、観客を作品に参加させることで、芸術と生活の境界を曖昧にしようとする。しかし、実際には、これらの試みは、観客を予め定められたシナリオの中で踊らせる、高度に管理された体験に過ぎない。「参加」は強制され、「関係性」は演出される。それは、死体に電流を流して痙攣させ、生きているように見せかける、マッドサイエンティストの実験を思わせる。
現代アートの腐臭は、テクノロジーによってさらに増幅されている。デジタルアート、VRアート、AIアート、NFTアート — これらの「新しい」形式は、技術的な新奇性によって創造性の欠如を覆い隠そうとする。しかし、新しい道具を使っても、死んだ精神からは死んだ作品しか生まれない。むしろ、テクノロジーは腐敗のプロセスを加速させる。それは、死体の分解を早める酵素のようなものだ。NFTアートの狂騒は、この腐敗の最終段階を象徴している。そこでは、アート作品そのものよりも、その所有権の証明書の方が重要になる。これは、死体よりも死亡証明書の方が価値があると言っているようなものだ。
だが、この腐臭に満ちた現状を単に嘆くだけでは不十分である。バタイユが教えてくれるように、腐敗は終わりであると同時に始まりでもある。完全な腐敗、徹底的な分解の後にのみ、真に新しいものが生まれる可能性がある。現代アートの腐臭は、ある意味では必要な過程なのかもしれない。それは、古い形式、古い概念、古い制度が完全に死に絶えるために必要な、浄化のプロセスなのだ。問題は、この腐敗を「生」として偽装し続けることにある。死体は死体として認識され、埋葬されなければならない。そうして初めて、新しい生命が芽生える土壌が生まれる。
現代アートの腐臭を嗅ぎ取ることは、不快だが必要な作業である。それは、皇帝の新しい服を「裸だ」と指摘することに似ている。多くの人々は、この腐臭に気づいていながら、それを指摘することを恐れている。なぜなら、そうすることは、自分が「アートを理解していない」「感性が鈍い」と見なされるリスクを伴うからだ。しかし、真の感性とは、腐敗を腐敗として、死を死として認識する勇気を持つことである。そして、その認識の上に立って、真に生きているものを探し求めることである。現代アートの腐臭は、我々に問いかけている — お前たちは、この死臭に満ちた世界で、なお創造の炎を燃やし続けることができるのか、と。