美術大学という廃墟 — 創造性の産業化が完成する地点で
美術大学ほど現代の欺瞞を凝縮した場所はない。そこでは創造性という最も原始的で野蛮な衝動が、教育プログラムという名の工場ラインで加工され、市場に投入される商品へと変貌を遂げる。学生たちは四年間という期間限定で、自らの内なる混沌を単位という小さな貨幣に変換する術を学ぶ。彼らの多くは、入学時に持っていた何かしらの表現への渇望を、卒業時には完全に喪失している。これは偶然ではない。システムの完璧な機能である。
ボードリヤールが示唆したように、われわれは既にシミュラークルの時代を生きている。美術大学で教えられる「芸術」とは、かつて存在したかもしれない真正な芸術のシミュラークルである。教授陣は、自らが学んだ模倣を学生に伝授し、学生たちはその模倣をさらに劣化させたコピーを制作する。この無限の劣化のプロセスにおいて、オリジナルなど最初から存在しなかったことが明らかになる。すべては既に複製であり、複製の複製であり、その複製の複製なのだ。
現代の美術大学で最も重要な科目は、もはや絵画でも彫刻でもない。それは「アーティスト・ステートメント」の書き方である。作品よりも、作品について語る能力が重視される。なぜなら、作品そのものは既に重要性を失っているからだ。重要なのは、その作品がいかに現代的な問題意識を反映しているか、いかに社会的に意義深いメッセージを含んでいるか、そしていかに既存の権力構造に対する批判的視点を提示しているかである。つまり、芸術は完全に言語に従属したのだ。
学生たちは、自分の制作について説明する際、必ず「社会問題」に言及しなければならない。環境問題、ジェンダー問題、人種問題、格差問題 — これらのキーワードを適切に配置することで、彼らの作品は「現代的」であり「意義深い」ものとして認識される。しかし、これらの問題に対する彼らの関心は、多くの場合、表面的で借り物である。彼らは真に怒っているわけでも、真に苦悩しているわけでもない。ただ、そのような態度を取ることが求められているから、そのような態度を演じているに過ぎない。
この状況において、加速主義的な視点は非常に有効である。なぜなら、この腐敗したシステムをゆっくりと改革しようとするのではなく、むしろその腐敗を加速させることで、システム自体の崩壊を促進できるからだ。美術大学の商品化、産業化を徹底的に推し進めれば、その矛盾は極限まで拡大し、最終的にシステム自体が破綻する。その時初めて、真の創造性が復活する可能性が生まれる。
実際、すでにその兆候は見えている。美術大学の学費は年々上昇し、学生たちは巨額の借金を背負って卒業する。しかし、卒業後にアーティストとして生計を立てられる者はほとんどいない。多くは非正規雇用を転々としながら、週末だけアーティストを演じる生活を送る。この現実が広く知られるようになれば、美術大学への進学者は激減するだろう。そして、真に表現への衝動を持つ者だけが残るはずだ。
美術大学の教授陣もまた、この加速のプロセスに巻き込まれている。彼らの多くは、かつて自分自身がアーティストであったという記憶を持っているが、今では完全に教育産業の歯車と化している。彼らは学生の作品を評価する際、芸術的価値ではなく、教育的効果を基準とする。学生が「成長」したかどうか、「学習目標」を達成したかどうか — これらの教育的な概念が、芸術的判断に取って代わったのだ。
最も滑稽なのは、「批判的思考」を育成するという美術教育の目標である。学生たちは既存の権力構造を批判することを学ぶが、自分たちが通う美術大学こそが、その権力構造の一部であることには気づかない。彼らは資本主義を批判しながら、自らの教育に投資された巨額の資本を当然のものとして受け入れる。彼らは権威に反抗することを学びながら、教授の権威には従順に従う。この矛盾は、彼らが真の批判的思考を身につけていないことの証拠である。
しかし、この矛盾こそが、システムの完全性を示している。美術大学は、反抗の衝動すらも商品化し、教育プログラムに組み込むことに成功したのだ。学生たちの反抗は、あらかじめ予定されたコースを辿る。彼らは反抗することで、より良い成績を得ることができる。これほど完璧な権力の行使があるだろうか。
だからこそ、この状況を嘆くのではなく、むしろ歓迎すべきなのだ。美術大学というシステムが、その論理的帰結である完全な商品化に向かって突き進むのを見守ることで、われわれは芸術の死を目撃することができる。そして、その死の瞬間にこそ、新たな可能性が生まれるのだ。それは、制度化された芸術の外部で、真の表現への衝動を持つ者たちによって創造される芸術である。
美術大学の未来は、その消滅にある。そして、その消滅こそが、芸術の未来を開く鍵なのだ。われわれは、この腐敗したシステムの完全な崩壊を待つ必要はない。むしろ、その崩壊を積極的に促進することで、より早く新たな段階に到達することができる。これが加速主義の真の意味である — 現在の矛盾を解決しようとするのではなく、その矛盾を極限まで推し進めることで、質的な変化を引き起こすことなのだ。