思想家・遠藤道男 思考録

絵画という名の墓標 — あるいは現代アートの自己埋葬について

現代アートの終焉について語ることは、もはや一種の儀式と化している。批評家たちは葬儀屋のように厳粛な面持ちで、芸術の死を宣告し続ける。しかし、死者は頑なに生き続けている。いや、正確に言えば、死んだふりをしながら市場で踊り続けている。この茶番劇において、絵画は奇妙な位置を占めている。それは最も古い死者でありながら、最も新しい生者でもある。キャンバスと絵の具という原始的な道具は、デジタルアートやインスタレーションが跋扈する時代において、まるで石器時代の遺物のようだ。だが、この遺物こそが、現代アートの欺瞞を最も雄弁に物語っているのかもしれない。

ジャン・ボードリヤールは『シミュラークルとシミュレーション』において、現実がその模倣に取って代わられる過程を描いた。現代アートはまさにこのシミュラークルの極致である。アーティストたちは「新しさ」というシミュラークルを生産し続ける。NFTアート、AIアート、バイオアート — これらは全て、革新という幻想を売買する市場メカニズムに過ぎない。一方で、絵画は頑なにその物質性を保持している。顔料とキャンバスの化学反応、筆の圧力、乾燥の時間 — これらは決してデジタル化できない。絵画は現実の最後の砦として、シミュラークルの洪水に抗い続けている。しかし、この抵抗もまた一種のポーズに過ぎないのかもしれない。なぜなら、絵画もまた市場の論理に組み込まれているからだ。

現代アートギャラリーを訪れると、奇妙な光景に出くわす。巨大なインスタレーションの隣に、申し訳なさそうに絵画が展示されている。まるで老人ホームに迷い込んだ若者のようだ。キュレーターたちは絵画を「伝統的メディア」と呼び、その存在を正当化しようと躍起になる。「この作品は絵画の可能性を再考察している」「ペインティングの新たな地平を切り開いている」 — こうした言説は、絵画がもはや自明の存在ではないことを露呈している。絵画は常に弁明を必要とする。それは罪人のように、自らの存在理由を証明し続けなければならない。

しかし、この屈辱的な状況にこそ、絵画の逆説的な強さがある。現代アートが「コンセプト」や「批評性」を振りかざす中で、絵画は沈黙している。それは言葉を必要としない。むしろ、言葉の過剰こそが現代アートの病理なのだ。アーティスト・ステートメント、批評文、解説パネル — これらの言葉の山は、作品そのものの貧困を覆い隠すベールに過ぎない。絵画は、この言語的インフレーションに背を向ける。それは純粋に視覚的な経験として、観者の前に立ちはだかる。この無言の抵抗は、現代アートの饒舌さに対する最も雄弁な批判となっている。

資本主義のシステムは、あらゆるものを商品化する。芸術も例外ではない。むしろ、芸術こそが究極の商品かもしれない。使用価値を持たず、純粋に交換価値のみで成立する — これほど資本主義的な存在があろうか。現代アートは、この商品化のプロセスを加速させている。作品は投機の対象となり、アーティストはブランドとなる。美術館は巨大なショッピングモールと化し、観客は消費者となる。この状況において、絵画は奇妙な両義性を帯びる。一方で、それは最も高額な商品である。オークションで数億円の値がつく絵画は、資本主義の勝利の象徴だ。他方で、絵画制作は最も非効率的な生産活動である。一枚の絵を完成させるのに数ヶ月、時には数年を要する。この時間的非効率性は、資本主義の加速に対する無意識の抵抗なのかもしれない。

テクノロジーの進化は、芸術の定義を絶えず書き換えている。VRアート、ジェネラティブアート、インタラクティブアート — これらの新しい形式は、従来の芸術概念を破壊すると喧伝される。しかし、この「新しさ」への執着こそが、現代アートの袋小路なのだ。常に次の革新を求め、常に過去を否定する — この強迫観念は、進歩主義というイデオロギーの産物である。絵画は、この進歩の神話から自由である。それは何も新しいものを提供しない。ただ、色と形の組み合わせがあるだけだ。この素朴さ、この単純さこそが、絵画の根源的な力なのかもしれない。複雑化し続ける現代アートに対して、絵画は永遠に同じ問いを投げかける — 「見ることとは何か」と。

現代アートの終わりは、実は始まりから予定されていた。それは自己否定を本質とする運動だからだ。ダダイズム以降、アートは常に自らの死を宣告してきた。「これはアートではない」という宣言こそが、逆説的にアートを定義してきた。この自己破壊的な論理は、ついに臨界点に達している。もはや否定すべきものが残されていない。全てがアートであり、同時に何もアートではない。この虚無的な状況において、絵画だけが奇妙な確かさを保持している。それは「これは絵画である」という同語反復的な真実に安住している。この愚直さ、この鈍感さが、かえって絵画を不滅のものにしている。

結局のところ、現代アートの終わりと絵画の始まりは、同じコインの表裏なのかもしれない。現代アートが自らの墓を掘り続ける間、絵画はその墓標として立ち続ける。それは死者を弔うためではなく、死そのものを嘲笑うために。絵画は現代アートの遺体の上で踊る。その踊りは優雅でもなければ、革新的でもない。ただ、執拗に、単調に、同じステップを繰り返すだけだ。しかし、この単調さの中にこそ、永遠性が宿っている。現代アートが次々と新しい死に方を発明する中で、絵画は同じ生き方を続ける。この皮肉な対照は、芸術の本質について何かを語っているのかもしれない。あるいは、何も語っていないのかもしれない。いずれにせよ、キャンバスは白く、絵の具は乾いていない。

作成日: 2025年6月19日