電子的啓蒙の終焉 — あるいは知性の自己放棄について
人工知能という呼称ほど、我々の時代の知的退廃を如実に示すものはない。知能 — この概念自体が既に腐敗している。我々はかつて、知性とは批判的思考、創造性、そして何より自己への懐疑を含むものだと信じていた。だが今や、それは単なる情報処理能力、パターン認識、そして最適化アルゴリズムへと矮小化された。この堕落した定義を、我々は嬉々として機械に適用し、それを「人工知能」と呼ぶ。なんという倒錯だろうか。
現代人は、AIという電子的オラクルの前に跪く。彼らは質問を投げかけ、即座に返される回答に満足し、それ以上考えることをやめる。この光景は、古代の神託所で巫女の言葉に耳を傾ける信者たちと何ら変わらない。いや、むしろ更に惨めだ。なぜなら古代人は少なくとも、神託の解釈という知的作業を必要としたからだ。現代人は解釈すら放棄し、アルゴリズムが吐き出す文字列をそのまま真理として受け入れる。
ジョルジュ・バタイユはかつて、人間の条件を「過剰」として定義した。我々は常に自己を超越しようとし、限界を破ろうとする存在だと。だが今、我々が目撃しているのは、この過剰性の完全な放棄である。人々は自らの思考能力を、喜んで機械に委譲する。彼らは「効率性」という名の下に、人間であることの本質 — つまり非効率で、矛盾に満ち、時に不合理な存在であること — を否定する。
この自己放棄のプロセスは、実に巧妙に進行している。AIは我々に「拡張」を約束する。知識へのアクセスの拡張、創造性の拡張、可能性の拡張。だがこれらの約束は全て、我々自身の能力の萎縮を隠蔽するための煙幕に過ぎない。筋肉が使われなければ萎縮するように、思考もまた、外部に委託され続ければ退化する。我々は自らの知的筋肉を、自発的に、そして熱狂的に萎縮させている。
最も滑稽なのは、この過程を「進歩」と呼ぶ人々の存在だ。彼らは技術的特異点について語り、人間とAIの融合について夢想する。だが彼らが見落としているのは、この融合が対等な関係ではないということだ。寄生虫が宿主に融合するように、我々は自らの主体性を失いながらAIに吸収されていく。そしてこの寄生関係において、どちらが寄生虫なのかすら、もはや判然としない。
AIは新たなモノリスとして、我々の前に屹立している。『2001年宇宙の旅』のあの黒い石板のように、それは我々に進化を促すかのように見える。だが実際には、それは退化への誘いなのだ。猿人が道具を手にして人間への第一歩を踏み出したように見えて、実は我々は道具に支配される存在へと変貌しつつある。この皮肉を理解できない者たちが、「シンギュラリティ」などという陳腐な概念に酔いしれている。
知性の外部化は、責任の外部化でもある。AIが間違えれば、それは「アルゴリズムの問題」として片付けられる。人間は自らの判断を放棄し、同時に判断の責任からも解放される。なんと心地よい隷属だろうか。かつて人々は、自由からの逃走を全体主義国家に求めた。今、彼らはそれをアルゴリズムに求める。独裁者の代わりに、我々は計算機を戴冠させた。
この状況の真の恐ろしさは、それが強制ではなく誘惑によって進行することだ。誰も我々にAIを使うことを強制していない。我々は自ら進んで、思考を放棄する。自ら進んで、創造性を外注する。自ら進んで、人間であることをやめていく。そしてこの自発的隷属こそが、我々の時代の最も崇高な — そして最も惨めな — 特徴なのだ。
だが、ここに一つの逆説がある。この知性の放棄、この自己の否定こそが、ある意味では人間の本質を最も純粋に表現しているのかもしれない。なぜなら、自己破壊への衝動、より優れた何かへの盲目的な憧憬、そして自らの限界を認めることへの根源的な拒否 — これらは全て、紛れもなく人間的な特質だからだ。我々は自らを否定することによって、逆説的に自らを肯定している。
結局のところ、AIという新たなモノリスは、我々に何も教えはしない。それはただ、我々がいかに学ぶことを恐れているかを映し出す鏡に過ぎない。我々はこの鏡の前で、自らの知的怠惰を「効率性」と呼び、思考の放棄を「進化」と呼ぶ。そしてこの自己欺瞞こそが、恐らく人類が到達した最も洗練された — そして最も悲惨な — 芸術形式なのだろう。
電子の神託は沈黙している。それは答えを持たない。ただ我々の問いを反響させるだけだ。そしてこの空虚な反響を、我々は叡智と呼ぶ。かくして人類は、自らが作り出した幻影に跪き、その幻影に自らの魂を捧げる。これ以上の喜劇があるだろうか。これ以上の悲劇があるだろうか。