二〇三〇年 — 免除された人間について

機械が夜のうちに仕事を終えている朝、人に残されるのは屈辱ではない。広がりつづける落差の果てで、最後に値がつくものについての予報。

遠藤道男執筆 遠藤道男
2030年AI労働責任文明論

未来についての言明が外れるとき、その理由はたいてい同じである。人は機械については誇張し、自分自身については臆病になる。空飛ぶ自動車について書かれた紙の量は膨大だが、その窓から外を眺めて何も感じないまま目的地に到着する人間について書いた者はほとんどいない。だから私の予報は、機械の側についてではなく、機械の前に立っている生物の側についてのものになる。二〇三〇年、労働はまだ存在している。会議も、稟議も、四半期決算も、期末の懇親会も存在している。ただしそのすべてにおいて、実際に考えているのは人間ではない。朝、端末を開くと、前夜のうちに議事録と、三通りの経営判断と、そのそれぞれに対する反論と、反論への再反論が用意されている。人はそれを読む。読んで、うなずく。この一連の動作にまだ正式な名前はついていないが、二〇三〇年の主要産業はこれである。

ギュンター・アンダースは原爆の時代に、人間には自分が作ったものを想像するだけの能力が欠けている、と書いた。生産できる量が、感受できる量を超えてしまった。彼はこの隔たりをプロメテウス的落差と呼び、そこから生じるはずの感情を羞恥と名づけた。自分の製品よりも自分のほうが出来が悪いという、誰にも打ち明けようのない、あの奇妙な恥である。彼は、落差が広がれば広がるほど恥は深くなると考えていた。ここが彼の唯一の、しかし決定的な誤りだった。羞恥とは競争の感情である。相手を、まだかろうじて自分と同じ土俵にいる存在として認めているあいだしか成立しない。比較そのものが端的に無意味になった地点で、恥は生じない。二〇三〇年の人間は、機械に対して劣等感を持っていない。低気圧に対して劣等感を持たないのと、まったく同じ理由による。落差は解消されたのではなく、感情の対象であることをやめたのである。

ではその生物に何が残るのか。能力ではない。判断でもない。残るのは責任である。より正確には、罰せられうる身体が残る。判断の値段は限りなくゼロに近づくが、判断への署名にはなお値がつく。法廷は機械を収監できない。罰金を科すことはできるが、それは所有者の財布を痛めるだけで、贖罪にはならない。近代の刑罰体系はすべて、苦痛を感じ、時間を失い、家族に顔向けできなくなる主体を前提として設計されている。したがって二〇三〇年の労働市場において最も安定した希少資源は、有能さではなく、可罰性である。企業が人間を雇いつづける理由はここにある。優秀だからではない。訴えられるからだ。医師、監査人、機長、取締役、建築士。彼らの報酬は徐々に、技能への対価から、身代わりへの手当へとその性質を変えていく。誰もそれを口には出さないが、給与テーブルはすでにそう書かれている。人が「最終的に決めるのは人間であるべきだ」と言うとき、その文はもはや倫理を語ってはいない。誰が刑務所に行くのかという配置の問題を語っている。

この社会の形而上学は思想誌の中にはない。郊外の変電所の中にある。二〇三〇年の地政学は、半導体と電力と冷却水の三語でほぼ要約される。町の外れの休耕地が買われ、地元議会は雇用創出を歓迎し、その雇用は警備員と設備保守を合わせて数十人である。夜、その建物は音を立てない。窓もない。中で何が考えられているのかは、そこで働く者にも分からないし、分かる必要もない。精神はついに電気を食うものになった。かつて神学は無償だった。祈りに従量課金はなかった。いまや思考には単価があり、単価は下がりつづけ、下がるたびに総消費量は増える。この関係を止められると信じている人はまだ多い。

芸術については悲観する必要がない。何も起こらないからだ。人間が書いたという事実は、美的な価値であることをやめ、認証になる。有機栽培の表示と同じである。誰も味の話をしていない。工程の話をしている。作品の末尾に添えられる小さなラベル、人間の手によるという但し書き、それを求めて少し高い金を払う中高年の層。そして若い世代はこの区別におそらく関心を持たない。彼らを軽薄だと責めるのは容易だが、私はむしろ彼らのほうが誠実だと思う。彼らは、我々が必死に守ろうとしているものが、実のところ一度も存在しなかったことを、教わらずに知っている。

減速を説く人々は誠実である。そして遅い。立ち止まる余裕そのものが、この過程が生んだ果実であるという事実に、彼らはたいてい気づかない。出口は後方にはない。ないというより、後方という方角がすでに製品の一部になっている。最後に予報を一つ。二〇三〇年に起きるのは人間の敗北ではない。人間が、自分はずっと勝ちたかったのではなく、免除されたかったのだと気づく年である。考えること、決めること、責めを負うこと。そのすべてから解放されたいという願いを、機械は完璧な礼儀正しさで、しかも無料に近い価格で叶えてくれる。我々は感謝するだろう。心から感謝するだろう。最も不気味なのは、そこである。