辺境は中央を経由しない — 石原莞爾・大川周明・万年東一をめぐる山形県論

世界最終戦争の立案者、コーランの翻訳者、愚連隊の神様 — 庄内平野の半径二十キロが二十年のあいだに生んだ三人の男をめぐって、辺境と世界のあいだの電位差について考える。

遠藤道男執筆 遠藤道男
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国道7号を酒田から鶴岡へ南下する。ロードサイドには紳士服量販店、パチンコ、回転寿司、ドラッグストア、携帯ショップが等間隔に並び、その配列は宇都宮の郊外とも、岡山の郊外とも、私が知る限り日本のあらゆる郊外と識別不能である。田圃はあるが、それは風景というより、まだ転用されていない駐車場予定地の顔をしている。私はこの県の生まれである。だから断言する資格くらいはあると思うが、現在の山形県を一時間走って、ここが何かを生んだ土地だと直観できる人間はいない。ところが記録は奇妙な事実を告げている。この庄内平野の、半径二十キロほどの円の内側で、明治二十二年から四十一年までのわずか二十年のあいだに、三人の男が生まれた。世界最終戦争の立案者・石原莞爾(鶴岡)。東京裁判の法廷で東條英機の禿頭を叩き、精神病院でコーランを全訳した大川周明(酒田)。そして理論も著作も残さず、戦後の路上に「愚連隊の神様」という称号だけを残した万年東一(大山)。世界史は、この米しか作らない平野を、二十年のあいだに三度通過したのである。

偶然と言いたければ言えばいい。だが地理は偶然より雄弁だ。庄内は地図の上では袋小路に見える — 三方を山に塞がれ、冬は雪に塞がれ、東京から見ればみちのくの裏側の、さらに裏である。しかしこの平野は一方向にだけ開いていた。海である。北前船の時代、酒田は西廻り航路の起点として大坂と直結し、大坂を経由して、間接的にではあれ世界市場と接続していた。日本一の大地主・本間家の富はその接続の沈殿物であり、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」という戯れ唄は、湊町の商人資本が封建的身分秩序を実質的に追い越していたことの、民衆による正確な観測記録である。つまり庄内の世界性は、江戸=東京を経由しない。そしてこの土地にはもうひとつの記憶がある。戊辰戦争で庄内藩は戦場ではほとんど負けなかったにもかかわらず、負けた側に整理された。ところが処分の意外な寛大さに感激した旧藩士たちは、敵将・西郷隆盛を神格化し、その言葉を編纂して『南洲翁遺訓』として世に残し、刀を鍬に持ち替えて松ヶ岡の原野を拓いた。敗者が敵の聖典を編纂する — この倒錯的な精神の型を、記憶しておいてほしい。中央に負けた土地が、中央を憎む代わりに、中央よりも大きな尺度を手に入れようとするのだ。

石原莞爾は鶴岡の警察官の家に生まれた。陸軍大学校を優等で出たこの男の伝記的細部よりも重要なのは、彼の頭蓋の内側で世界がどう見えていたかである。彼の『世界最終戦論』の骨格は単純にして誇大妄想的だ:戦争は進化する。決戦戦争と持久戦争が交互に現れ、兵器の発達がその振幅を極限まで広げたとき、東洋と西洋の代表者が航空兵力と殲滅兵器によって一度だけ衝突する。その最終戦争のあと、戦争は物理的に不可能となり、世界は統一され、永遠平和が来る。つまり彼にとって満洲は領土ではなく、来るべき決勝戦のための予選会場であり、柳条湖の爆破は世界統一のスケジュール表の第一行だった。注意すべきは、この構想のどこにも東京が存在しないことである。彼の視線は鶴岡から満洲へ、満洲から最終戦争へ、最終戦争から人類の統一へと跳んでいき、帝都は単なる書類の通過点に過ぎない。だからこそ彼は、自分の設計した爆発が自分の設計を超えて延焼しはじめたとき — 日中戦争の泥沼こそ彼の理論が最も禁じた「無意味な持久戦争」だった — 誰よりも激しく不拡大を叫び、そして東條英機という、中央の凡庸さそのものを人格化したような男によって予備役に送られた。戦後、病身の彼は庄内に戻り、都市の解体と農工一体の簡素生活を説いた。一九四七年、極東国際軍事裁判は証人尋問のためにわざわざ酒田に臨時法廷を開く。ヘーゲルはイェーナの街路で馬上の世界精神を見たというが、酒田では順序が逆である — 世界史のほうが、辺境の病人を見舞いに来たのだ。そこで彼が「私を戦犯にするなら、まずペリーを呼んでこい」と言い放ったと伝えられるのは、負け惜しみではない。開国以来の百年を一個の因果系列として見る人間には、市ヶ谷の法廷の時間尺度のほうが狭すぎたのである。

大川周明は酒田の医師の家に生まれた。東京帝国大学で学んだのはインド哲学であり、つまり彼は中央の最高学府を通過はしたが、目的地は最初からデリーとメッカだった。植民地支配下のアジアという問題に取り憑かれ、北一輝を上海から迎えて猶存社を興し、クーデター計画に関与し、五・一五事件で獄に入り、その間に書いた『日本二千六百年史』はベストセラーになった。だがこの男の生涯で最も雄弁な瞬間は、一九四六年五月、市ヶ谷の法廷で訪れる。A級戦犯二十八名のうち唯一の民間人 — 唯一の思想家 — であった彼は、パジャマ姿で被告席に座り、前列の東條英機の禿頭を、衆人環視のなかで平手で叩いた。精神障害と診断され、訴追を免除され、松沢病院に送られた彼は、そこでコーランの全訳を完成させる。私はこの一連の出来事を、狂気の症例としてではなく、一個の完結した批評として読む。帝国が焼け落ち、その指導者たちが戦勝国の法廷という劇場で裁かれの儀式を演じているとき、彼はまず劇場そのものを平手打ちによって笑劇に変換し、次いで病室に退いて、七世紀の預言者の言葉を訳した。どちらが正気の作業だったかは、七十年後のいまとなっては、それほど自明ではない。彼もまた東京を経由しただけである。彼の精神の航路は酒田からアジアの内奥へ直行しており、その航路は北前船のそれと同型だった。

三人目には、理論も翻訳もない。万年東一は大山に生まれ、上京し、大学を出ず、拳ひとつで新宿と銀座の路上に君臨した。戦中は大陸で特務めいた仕事に関わったと伝えられるが、検証可能な事実は少なく、残っているのはほとんど伝説だけである — 死後、梶原一騎の劇画の主人公として流通したという事実が示すとおり、彼は歴史ではなく神話の側に整理された人間だ。だが私はこの三人目を、前の二人の劣化版として置いているのではない。逆である。石原は理論によって、大川は翻訳によって、世界と直に触れようとした。万年は媒介そのものを省略した。組織なき組織である愚連隊、明日なき喧嘩 — それは、中央が独占する秩序と意味の配給網を経由せずに世界と接触しようとする同じ衝動の、度数ゼロの形態である。理論、翻訳、拳。庄内が二十年のあいだに送り出したこの三つの様式は、実は一個の文法の三つの活用形に過ぎない:辺境は、中央を経由しない。ついでに言えば、三人の死に方までもが活用形として整っている。石原は一九四九年、遊佐の開墾地で病に死んだ — 予言した最終戦争の代わりに、冷戦という長い持久戦争の開幕だけを見届けて。大川は一九五七年、戦犯としてではなくコーランの翻訳者として、つまり自分で選び直した肩書きのもとで死んだ。万年は一九八五年、路上がとうに防犯カメラと条例の演習場に変わり果てた東京で死んだ。注目すべきは、国家に処刑された者が一人もいないという事実である。世界を敵に回したはずの三人を、中央は結局、誰ひとり裁き切ることができなかった。裁く枠組みのほうが、彼らの尺度より先に壊れたからである。

ここでひとつ白状しておくと、私自身、この県を捨てた側の人間である。一九九〇年代の末に上京し、大学を中退し、崩壊直後の渋谷で安く使われ、以来ほぼ東京圏で暮らしてきた。つまり私は、山形県の人口統計の「社会減」の欄に一票を投じた当事者であり、この論考は流出した水が水源について語るという、いくらか滑稽な構図のなかで書かれている。だが当事者だからこそ分かることもある。私の上京と、大川や万年の上京とは、同じ動詞で呼ばれてはいるが構造がまったく違う。彼らにとって東京は乗換駅だった — 大川は帝大の学籍を持ったままアジアの内奥へ乗り換え、万年は路上という、国家がまだ完全には舗装していなかった空間へ乗り換えた。私たちの世代にとって、東京は終着駅である。改札を出れば、そこには世界への接続と称するものが確かにあった。ただしそれは、彼らが夢見たような固有名詞の世界 — 満洲、メッカ、上海 — ではなく、どの端末からアクセスしても同じ顔をする、均質化のプラットフォームとしての「グローバル」だった。私たちは世界に接続したのではない。世界の側が、接続という形式によって、あらゆる場所から固有の外部性を回収していったのである。乗り換えるべき先が、もうどこにもなかった。

では、なぜあの平野だったのか。私の仮説は単純である。辺境が世界を夢見るためには、落差が要る。電位差と言ってもいい。雪に閉ざされる半年が蓄える position energy、北前船が運んでくる外部の気配、戊辰の敗戦が残した「中央の正義は狭い」という体感、出羽三山の森で自らを乾かして仏になった行者たちの宗教的過剰 — これらが庄内という低地に堆積し、明治という放電装置が与えられたとき、火花は東京を飛び越えて満洲へ、メッカへ、路上へと飛んだ。とりわけ最後の項は軽視すべきでない。湯殿山系の即身仏 — 五穀を断ち、木の実を食い、生きながら土中の石室に入って鉦を叩き続け、鉦の音が絶えたところで掘り出されて乾燥させられる — この身体技法は、庄内の信仰圏が「世界の救済のために個体の限度を超過する」という回路を、近代よりずっと前から民衆レベルで実装していたことを示している。石原の最終戦争論は、この回路に参謀本部の語彙を与えたものだと言ってしまえば言い過ぎになるが、まったくの無関係だと言うほうが、私にはより大きな嘘に感じられる。中央とは要するに変圧器であり、変圧器を信用しない土地の電流は、直接どこか遠くへアースを求めるのである。

そして現在の山形県に、この電位差はもう存在しない。人口は毎年一万人規模で減り続け、若者は東京に吸われ、残った平野にはイオンモールが建ち、光ファイバーが通り、誰もが東京と寸分違わぬ画面を、東京と寸分違わぬ姿勢で眺めている。酒田の山居倉庫は米の集積地から記念写真の背景へと転職し、鶴岡の水族館はクラゲの水槽で穏やかに賑わい、本間家の旧本邸は入館料を取って公開されている。土地の固有性は消滅したのではない。観光資源という名の標本になったのだ — 掘り出されて陳列された即身仏と、正確に同じ棚に。辺境が消滅したのではない。落差が消滅したのだ。全国が均質に希釈された結果、どこもが中央の劣化コピーであり、ゆえにどこもが辺境ですらない。落差なき平野は、もう誰も生まない — 世界最終戦争の立案者も、コーランの翻訳者も、愚連隊の神様も。生むのはせいぜい、地域おこし協力隊の中間報告書である。ただし、皮肉はここで終わらない。石原莞爾が晩年に説いたのは都市の解体と農への回帰だったが、彼の予言はいま、誰の思想の力も借りずに実現しつつある — 最終戦争としてではなく、最終過疎として。都市は爆撃されずに溶解し、平野は思想されずに空白へ戻っていく。そしてあらゆる均質化の果てには、必ず新しい落差が — 今度は土地と土地のあいだにではなく、人間と、人間ならざる知性とのあいだに — 静かに積もりはじめている。雪はいつも、誰も見ていない夜のうちに積もる。庄内の人間なら誰でも知っていることだ。